書類の修正は本当に必要なのか考えてみる

書類には修正が必要なものとそうでないものがある

商品等の企画・開発の策定や物品の購入等について関係者や決裁者に了解を得るために用いられている文書とかあると思う。

そういうのって稟議書だったりすると思うんだけど、この稟議書って承認を得ることによって企画を改善したり新たなアドバイスを受けたりできるのですごく良いものだと思う。

ただその一方で良いことだけではなく残念に感じることもある。

それは本質と離れたことろを修正の指示を受けたりすることです。

そういったときに稟議って何のためにやったんだろ?本質はなんなんだろ?とか考える。

稟議書の内容はいろいろあるけれど、おそらく売り上げや今後の対策、臨時の対応等、早い段階でやっておいた方がいいと考えていることを起案していると思う。

もちろん起案者が未熟で他のバランスと考えて着手するタイミングが早かったり、コストの査定が甘かったり、見落としがあったりと修正すべきことも出てくると思うけど、そういった場合は指摘を受けて素直に修正すればいいと思う。これは本質的な内容の指摘。

逆に本質と離れたところの指摘というのが・・・。例えば『Aに工事を発注して月末までに工事完了予定です。』を『Aに工事を発注して月末までに工事が完了する予定です。』に修正するように指示されること。

もしかしたら大切だと思う人もいるのかもしれないけど、私は工事完了予定と言った時に工事が完了する予定なのが伝わらないのかな?って思ってしまって、例えば工事完了予定といったときに工事を始めるって勘違いする余地があるのであればそこは修正した方がいいと思う。でも工事完了予定と言った時に工事が完了する予定なのが伝わらない場合ってあるのかな?

こういったことって伝えたいとする意図が違ってしまうのであればそこは修正すべきで伝わればそれで進めた方が良いんじゃないのかな。基本的に起案している内容って会社の利益に関わることだったりする事が多いのでそれが遅れることで不利益を被ってしまう可能性だってでてくると思う。だから不利益を被ってでも修正する必要があるのかどうか十分考えて修正を依頼した方がいいんじゃないかって思うんですよね。そう考えると必ずしも修正が正しいものかどうかはわからないと思う。

自分の考えを押し通すことで会社に不利益を被る可能性があることを冷静に考えれば修正を迫ることが正しいのか判断できそうな気がする。いやいやそれくらいの修正だったら簡単にできるしやったらいいじゃんって考えもあるかもしれないけど決裁者が多いとそれなりに時間がかかるし、こういったことを常にやってしまう人はいろんな人に対して同じように指摘をするのでその時間はちりつもで莫大な時間を費やしてしまう可能性だってあると思う。

そんでもってこれも昨日書いたブログの正義感(記事:正義感って怖い)なんだと思うんだけど自分が思っていることが正しいと思っていてそれを周りに押し付けているように見えるんですよね。もちろん自分ではいいことをしているつもりなのかもしれないけど実は周りに迷惑をかけていて煙たがれる場合があることに注意したほうがいいと思う。しかも自分が良いと思っているから自分では気が付きにくくてなかなか修正できないので。

そしてこれも変えられるのは他人ではなく自分自身なのでそうならないように留意するとともに、時にはそういったことをしていないのか自己チェックをしたほうがいいと思う。

私はあまり拘りがなくて逆にいい加減ってとらえられる場合もあるけど、つまるところ会社の利益になるのか?案件によっては取引先の利益になるのか?そういったことを考えて利益になるのであれば早急に対応し、問題があるのであれば是正するように心がけています。ただこれも私の考えなのでそれが正しいのか?本当に誤りがないか注意していきたいと思う。そうしないと気づかないうちに人に迷惑をかける様になるので。。

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