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色々な考えを許容できる社会になればいいな。。

感覚の違い

遊びにしても会食にしても仕事にしてもいろんなところで空気を読んで行動する。

それは相手に対して不快感を与えないように配慮することが目的だと思う。

だから自分なりに考えてその場に応じた対応をする。

ところがこういった自分なりに考えて対応することが相手からすると違ってしまうと感じる時がある。

なんでこんなことが起こってしまうのだろう。

自分の感覚が普通だと思ってしまっていること

当然のことながら、人によって各々の感覚は違う。それは性格もあるし育った環境や今の置かれた環境など様々な影響によって感覚は変わっていくと思う。

だから感覚は人それぞれ違うということを前提に考えておいた方がいい。

ところがこの感覚って自分が感じているものだから、自分の感覚が普通だと思ってしまう。この普通というのが厄介で、自分が一般的な考え方と思ってしまう場合がある。

なので人によって感覚が違っているのにお互いが自分の感覚を一般的なものだと疑うことなく感じているから衝突することが出てくる。こういった時に衝突しないようにハンドリングできればいいんだけど、それができずに実際に衝突してしまうこともあるんですよね。

何が問題なんだろう?

認知の影響は大きい

衝突する時の原因はその状況に応じて様々なものがあると思うけど、私が思うに衝突する時の大きな原因って認知による影響が大きいと思う。

ここでいう認知というのは相手の言動や行動に対してそれをどう認識するかということです。

例えばあなたが駅で電車を待っている人の列に割り込んだとする。その時に誰かに割り込んだらダメだと言われたとしよう。そんな時にどう感じるのか?

割り込むことをしない人だったとすると割り込んだことって故意にしていないから、謝って並び直すと思う。並んだりすることをあまり気にしない人であれば注意されても無視してそのまま並び続けたり、自己中心的な人であれば注意されたことに感情的になってしまい、逆ギレして言い返してくる人もいるかもしれない。

人によって反応は様々だと思うけどこの時の注意をする側と注意をされた側の違いって、注意した人は並ぶことが常識だと思っているから注意をしていて、注意された方が並ぶことを常識と思うかどうかということの認知の違いがある。

注意された側が並ぶのが常識だと思っている人は謝るし、常識だと思っていない人からすると何で注意されないといけないんだよって気持ちになってると思うんです。

おそらく並ぶのが常識だと思っている人が多いから電車を待っている人は何も言われずとも並んでいるんだと思う。それでみんなが並んでいるから自分も並ぼうと考えるのはいいと思う。

ただ人の行動に対して注意をするのってどうなんだろう?

多数派が正しい?

確かに並んでいる人からすると割り込む人を許せない気持ちはわかる。公共の場で周りの人に不快な思いをさせるのも良くないのかなって思うし、注意したくなるのも理解できる。

でも本当にそこで注意する必要はあるんでしょうか?

それというのも自分が何を思ってどう行動するかはというのは法の下で許容されている範囲内で自分で決める。これは当然だと思う。

だから自分の行動は自分で決めることができる。ということは、自分の行動は自分で考えて、相手に対して何かしら行動を強要するものではないんじゃないかと思う。

特に多数の人が考える行動は疑うことなく正しいと考えてしまいがちで、注意してしまうんですよね。

人それぞれ感覚が違うならそれに応じた行動があると思うんです。だから人それぞれ感覚は違うということを認めることって大切だと思う。

自分にとって常識だと思っていることでも、相手にとっては違うということを前提にものごとを考えた方がいい。そうすると衝突することは減ると思う。

人がぶつかり合って傷つけるのは何より避けた方がいい。

今回の例えだと電車で並ぶことだからそんなに問題になる話ではないかもしれないけど、多数派による暴力っていうのがあってそれによって傷ついている人もいるんじゃないかな。。

だからもっと人それぞれの考えがあることを許容できる社会になればいいなって思う。

まとめ

多数派でも誤りはある。

自分の正義を自分が貫くことはいいと思うけど、人に強要するものではない。

多数派でも誤ることはあるので、時には自分が正しいのか考えてみるのもいいのかもしれない。

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